【つれづれ】パワフルな聴き方について

2010.08.30(Mon)




先日の『真のempathyって』
の記事に、奇跡のコースを一緒に学ぶ友人から
コメント(非公開)をもらいました。

「あるところで
同じようなことを考え発言していた、
聖霊と共に聞かないと
自我的な声をキャッチしがち」といった内容でした。

ありがとうございました^^♪



この、「自我的な声」と話の聴き方について
以下説明するとすれば・・・






毎日、一日中
人は何かしら考えたり感じたりしています。

それが、そして、その考えたり感じたりしている存在を
「自分」だと思っています。

「わたしは、こう考えている」
「わたしは、こう感じている」と。

でも、実は
永遠の存在であり愛であり何も欠けていなくて護られている
本質の自分とは関係ない部分が
考えたり感じたりしています。

神から離れたと信じ込み
いつも何かが欠けていると感じてそれを埋めようとし
からだの死を信じ、罪悪感を持つ・または隠し
恐れから人や自分を攻撃する
「自我」が
考えたり感じたりしているのです。

だから
「わたし(と思っている存在=自我)が ○○と考えている、感じている」
のであり

本質の「わたし」の思いや感覚・感情ではないことがほとんどです。

「ほとんどです」というのは
(聖霊と共に)自我の思考や感情を観察し
距離をとる訓練をしていくと
思考が、自我的なものだけでなく
本質からの思い(聖霊的な思考)となることも、可能だからです。


話したいことがいっぱいたまっていて
堰を切ったように話している時、その話し手は
ほとんどが自我の声を語っています。

話の内容は様々ですが
話し手は

「自分の思いによって、見ている世界は変わる」
ということを忘れ

「自分は、環境や起こる出来事や他人に翻弄され
 それに巻き込まれてしまうだけの
 弱い存在だ」と思い込んでいます。

なので、お話の内容と(自我の)気持ちは聴きながらも
そちらに同調し巻き込まれないで
愛であり、創造できる本質の方に同調・フォーカスしながら聴こう
ということなのです。


人の話を聴くときも、
どんなに深刻な内容だろうが
どんなに自分と境遇が似ているように感じようが
刻一刻「自我は○○と思っている・感じている」というふうに
自分の思考・感情を観察し、それを脇へおきます。

自分のことと相手のことはゴッチャにしません。
ゴッチャにしたとき、それは相手(の自我)に敏感に伝わり
「ちゃんと聴いてくれてない」と感じます。

そして、相手の自我の声を踏まえながらも
自分の自我の声には巻き込まれないで話す。

コレ、聴き方の技術としては
最高級の聴き方でしょうから
ココへ行きつくのは、時間はかかると思います。

わたしも、書いているけれど、できるわけではなくて
できないからこそ、セッションや肝心な時にはココを目指すようにと
促されているのだと思います。





美和子


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Category: ■ACIMつれづれ

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【テキスト】真のEmpathyって[16章より]

2010.08.27(Fri)



きのうからね、「16」という数字が何度か浮かぶんですよ。
それと「ACIMのテキスト読みたい♪」
という思いと。

それで、今日は「そういや、テキストの16章って
なんだったっけーー?と見てみると

タイトルは”THE FORGIVENESS OF ILLUSIONS ”

(「錯覚」を赦すこと)で
はじめの方は、ほんとうの empathy(共感、感情移入)
について書いてありました。

以下、いつも同様、わたしの理解したものを書いたので
解釈間違いがあるかもしれません。



「真の共感・感情移入というのは
聖霊または神の力強さと共感することで
人の苦しみ、痛みと共感することではない」
というように、結構容赦ない感じで(と、わたしの自我が受け取った^^;)
書かれています。

一般に、人の話を聞くことは
無条件の愛の表現のひとつ、などとも考えられていて
話を聞くときには
相手の気持ちに共感することがたいせつ
と言われています。

話すほうの立場であるときには、
聞き手に、話している出来事の内容と共に
気持ちを汲み取ってもらえたと感じると
スッキリするし、聞き手への信頼感も増します。

そして、混乱した思いが整理されていき
自分の知恵を働かせることができるようになったりします。

・・・なんですが。

この場合の「気持ち」ってのは
自分の本質ではない、自我の感情です。

このときの「共感」っていうのは
話し手の自我の感情に、聞き手の自我が同調するって
ことなんだと思います。

お互いの自我同士でつながって共感しているわけですね。

自我は、最初に神から離れて分離したという夢を見ているので
いつも「何か欠けている」と感じていて何かと一体感を持ちたいのです。

それで、人と人の自我同士の共感で結びつき
力を強めようとするそうです。


で、人の話をじっくり聞く必要がある場面、っていうのは
話し手が、苦しい、辛い、と感じたことを
聞く場合が多いですよね。

なので、双方の苦しみ同士が響きあい
その、錯覚である苦しみを、さらにリアルにするという
結果になることも考えられます。

そうなると聞き手の方まで辛くなってしまうことでしょう。

でも、相手の苦しみと自分の持つ苦しみとの一体感も感じるので
その心地よさも、あったりするでしょう。


たとえ、気持ちを汲み取ってもらって
話し手のほうがスッキリして力強くなったように感じられるとしても、
その人が「わたしは間違っていない」と感じたとしたら
過去の苦しい状況や人を責める怒りが
増しただけのことになるかもしれません。

この場合、聞き手が 聖霊(本質)と共感しながら

「この人の(愛であり永遠であり何も欠けていないし護られている)本質は、
 今、ここで苦しみを訴えている自我ではない、
 本質では、何も傷ついていない」

と心得て聞いていると

今起こっているように見えることと、苦しみを
リアルに強めることにはならない、ということになるかと思います。


たぶん、わたしがまだ
こういう聞き方ができないので
「16章読んだら?」のメッセージが来たのだと思いますが^^;

セッションではなく、日常で人の話を聞くときは
「どうせ、コレ、この人の自我の寝言なんだから~」
とテキトーに流して聞いているときが多いです。

やっぱり、「本質では大丈夫なんだから、何も欠けてないんだから」との
思いを送りながら聞いたほうがいいな

と、思いましたとさ。




Category: ■テキスト

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【夢日記】共に生き 共に創る

2010.08.13(Fri)





ある日の午後。

小さな工房の外に、木のテーブルとベンチがある。
そこに腰かけて、ある友人の話を聞いている。

「(紙に絵を描きながら)
 こういうガラスの球に、こういうふうにバーッと
 色を入れていったのね。(黄色や深い紫)

 それが、始め気がつかなかったの。

 他の人が前にもう、模様を入れていたのが見えていなくて
 自分の色をのせちゃったの。

 私が色をのせたときに
 目の前にいたその人たちが「あっ」と一瞬思ったみたいで

 そのとき初めて『あっ、やっちゃった』と気がついて

 でもすぐ『’共生’って感じ・・・』と言ってくれて」


「’共生’って言ってくれた時、ほっとしたでしょう」

友人は、わたしの目を見つめてうなずく。


そのガラスの球は、海の浮き球よりも厚みが薄く中が空洞で
直径60センチぐらいの 大きいもの。

浮き彫りのような感じで、模様が描かれていて
友人は、その上に別の色のガラスを流しかけた、ということらしい。

「こういう(大きな、すごい)ものを創るって
 めったにないことだと思う。

 それを人と一緒に創ったのだから、それはすばらしいことだよ」

と、心から友人に言うと、彼女は救われたような表情をする。


彼女は、ヒーラーを志望しているが

「私は、まだこんな感じで
(人への配慮が足りない、癒しが進んでいないという意味?)

 まだ癒しの仕事をできる段階には行けていなくて」

と言って、いつの間に 姿が消える。 

わたしは、彼女に話しかけるように言った。

「今体験していることを しっかり味わっておくといいね。

 その体験があなたを育み、いずれ他の人の役に立つのだから」



(後略)



この工房では、ガラス工芸をはじめ
そのほかの工芸品をアーティストたちが創ったり
ワークショップが開かれたりしているようです。

ヒーリングを学んでいる人たちの
たまり場っぽくもなっているようです。

この、夢の中での友人は
愛嬌はあるけれど個性が強く
場の空気を読めないキャラでした。

あまり深く考えないで 自分の好きな色をのせてしまい
周りの反応を見て初めて
「あ、またやっちゃった」とギクっとした感じが
伝わってきました。

それに対して、一瞬驚いた(怒りも感じたかも)人たちは
自分たちが創った物に
思いもつかない斬新な色合いを流しのせた
新しいガラス玉を見て
衝撃を受けたかもしれません。

友人は、他の人との調和を考えることを覚えないといけないと思いつつ、
でもいつも100パーセント自分を出さないのは辛くて
やっぱり出してしまう・・・

そこに葛藤があるようです。

そして、いつものように思わず個性を出してしまったのに
それを他の人が、新しい調和として受け止めてくれたことに
ほっとして、嬉しさを感じていました。

わたしも、友人の話を聞き、様子をみていて
救われた気がしました。


このように、複数の人たちと
お互いに遠慮も妥協もしないで
個性を思いきり活かしながら
共に新しい何かを生み出していくことができたら
うれしいですね。

わたしは、共同作業(コラボレーション)というと
意見や個性やお互いの都合の調整が難しいかも
どこか妥協したり、自分を抑えたりしなくちゃいけないし
それならひとりで好き勝手に作業した方がいいや
と、以前は思っていました。

が、もしかしたら
お互いに影響しあいながら、自分が気がつかなかった特長までも
100パーセント出し切ったら
ほんとうにひとりでは想像できないすごいものが
できるんじゃないかという可能性を、信じ始めています。



夢には続きがあって

わたしも、テーブルで何人かの人たちの前で
塗り絵をして、「ガシガシ塗って、すごいね」
「塗らないところがあるのも、いい感じ」などという
感想を聞きながら、満足していました。



この工房は、小ぢんまりとしているけれど
木のにおいと温かみがあります。

また、ここへ人に会いに来たい
何か創りたくなった時にふらりと寄りたい
と思えるようなところでした。

わたしも、この世界に物理的にそういう場所がほしい。

自分はアーティストではないけれど
アーティストたちがふらりと集まり何かを創り
生徒さんたちも気軽に立ち寄れるところ・・・

その場を自分でつくらないとしても
きっと、そういうたまり場と出会えるはず。

もう夢の中にはあるのだから
きっと、この世界にも持てると思います^^

そして、比ゆ的な意味だけではなくて
実際に、手を使って何か描いたり創ったりしたくなりました。

おもしろく、深く、気持ちのいい夢でした。 



追記です。 



今日は一日、この夢のイメージを味わっておりました。

蛇足のようにも感じますが
コレを 奇跡のコース的に見てみると・・・

夢の中のガラス玉は
地球・宇宙・世界を思わせます。

ガラスなので、多少厚みがあっても
落とせばすぐ割れます。壊れやすいです。

今、現実と思い込んでいる幻想の世界が
このガラス玉である、とも考えられます。

複数の人の共同作業で作った
きれいな心地よいものであるとしても。

シビアな見方ですが・・・夢・幻であることに変わりはありません。



現実と思っている世界は
神から分離してしまった、という夢を見ている世界です。

奇跡のコースは(わたしの読み方が適切であれば)
その夢の世界は実は はじめっからないのだから
その世界を
人がどうにかこうにか細工して美しくすることは
幻想を別の幻想に置き換えるだけで
残念ながら意味はありません。

それでも、
どんなにたくさんの人に囲まれていようが感じてしまう
どうしようもない孤独感を持った状態から始まって
次には、人と共に生きる喜びを感じるようになり

自分はひとりぽっちではない、人(やこの世のもの)との一体感を感じ
さらには、神と一体である本質を感じとるようになり・・・
という過程が、コースの学びの道中にあるのでは?と思います。
(地上の悪夢が 『幸せな夢』になる)

でも、そうは言っても、
やっぱりこの手(身体)を使って
美しいガラス玉、作れたらすてきです^^



美和子





プロフィール

美和子(Miwako)

Author:美和子(Miwako)
美和子です。奇跡のコース学習者として 記録したいことを綴ります。

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