【つれづれ】「ヘレンとビルを特別であると考えない」

2013.04.18(Thu)


ひきつづき『天国から離れて』を読んでいる。

読み進むにつれ
「知りたいことばかり書いてある」という思いで
圧倒される。

ヘレンの、ビルへの手紙やイエスとの交信記録をなどを引用し
イエスとヘレン、ビルとのやりとりが
読み手によってはくどく感じるほどに
こと細かに書かれている。

コースの書き取りが始まった後の記録には、
イエスの、ヘレンとビルへの個人的なアドバイスも多く
今のコースのテキストからは省かれた部分も載っていて
「ああ、ここは元々は二人に向かってイエスが語ったことなのか」
と、感慨深いものがある。

著者 ケネス・ワープニック氏の文章は
言葉の一つ一つが、読み手に可能な限り
正確に受け取られるように配慮して
書かれているように感じ取れる。

そして、つい頭ですべて理解したくなってしまい
それで、喜びのはずの読書が いつの間にか
苦しいものになる(笑)

辛いのだが、やはりこの本に惹かれてやまない。複雑だ。

とりあえず、どこに何が書いていあるかが
なんとなくわかるように、一通り通しで読むつもり。

その後は、「指示」に従い
必要なところを読み返すことになるだろう。
そして、読み返すときには、
コースのテキストがそうであるように
まるで初めて読むような感じがするのかも。



この本に書かれている何かが
今のわたしの 自分でもよくわからない葛藤に対して
答えをくれることはわかっていたが
きのう、ようやくわかりかけてきた。

まず、ひとつめは。

「もっと 些細なことについても 教え・助けを求めてほしい」
という、イエス(聖霊)からの働きかけ。



天界の計画によって
奇跡のコースを記述し、編集し、出版するために
ヘレンとビルが「特別に」選ばれた、と受け取ることもできる。

ふたりの適性や必要性などによって
確かに選ばれたのではあるが。

読んでいると、イエスに直接こと細かに
コースの教えを摘要するべく指導されているヘレンとビルが
うらやましくなってくる。

一方、わたしは
「自分はコースの学習者で、将来は教師になるかもしれないが
 数多くの学習者中の一人にすぎない」
という認識を持つ。

「ヘレンとビルは 大きな仕事を任されたけど
わたしはその他大勢の一人なんだから
彼らほどには、学びについて期待されていないだろうし
彼らが言われているほど厳密に学ばなくてもいいのではないか」

と思ったのだ。(もちろん自我が)

しかしそこに、
「それは分離」「だれも特別ではない」
という思いが浮かんだ。

「ヘレンとビルは 自分とは違う特別な存在」
と思い
それをうらやましく感じた。

それが、間違った思いである、ということだ。

元々、著者、ケネス・ワープニック氏がヘレンについての本を
書こうとした動機が
ヘレンの死後、彼女を過度に神秘化されることや
様々な誤解から彼女を護るためにであった。

そして、ヘレンの内的生活を描くことは
あらゆる人の物語を描くことであり、つまり
この本は、ヘレンにもその他の人にも
遅かれ早かれ内的に起こることは共通なのだ
という思いで読むべき本なのだ。

(というふうに わたしは受け取った)

わたしは、自分では
「イエスの声がロクに聞こえない。
あんまり重要な人物でないから向こうが気にかけていないんだ」
と思っていた(笑)

でも、認めたくないがやっぱり
「聞く耳を持たないから(感じ取ろうと心を開かないから)
 受け取れていない(気がする)んだ」
と、降参した。

いつでも「わたしは何もわからないから教えて」と
と声をかければいいだけなのにねぇ。



そしてもうひとつ。

「聞く」ときは、一人で受け取ろう、受け取ろうと
がんばるほど聞こえない、ということ。

そういうときは、意に反して
「自分一人で何とかしたい」という思いに
夢中になってしまう。

そういうときは、誰かほかの人のために、または
他の人と一緒にいる状況で、受け取りやすくなる(場合もある)

ということのようだ。

イエスとの交信は、ヘレンが担当していた。
その内容は、ヘレンを通じて ビルに伝えられた。

交信が、その能力を持つヘレンにしかできないから、でなくて
(ビルが聞く耳を持たないから、という理由もあるが)
ヘレンとビルがイエスの伝言をシェアし
一緒に学ぶ(間違いを訂正する)必要があったから、でもあった。



このごろは、肉体のある人が言う言葉に
「あ、これは聖霊の声だ」と思うことがある。

自分が、それが聖霊(またはイエス)の伝言であると
受け取れていないだけで
実は、身の回りの人の言葉や態度は
聖霊からの贈り物だらけだったのかもしれない・・・
ということも、今気づいた(笑)


美和子





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今、形にしたいと思っているものについての覚書

2013.04.17(Wed)



このごろ、以前ほどには
「成功」「失敗」にこだわならくなったと思うが
(そういう判断をあまりしなくなった)
もし人生での成功というものがあるとすれば

わたしにとっては、現時点では
「いつでも愛・平安を感じられる状態
(恐れから自由になった状態)になれること」
ができたら、成功と言えるかな?と思う。

「成功」という言葉はしっくりこないが
そこに達したい状態(目標、とも ちょっと違う感じがする)
が、そういう状態になることである。

日常で意識していないものを体験している
睡眠中の夢を扱って、恐れから解放され
(恐れを感じたとしても、それによって心、行動が制限されない)
「いつでも愛・平安を感じられるようになれること」を求めつつ
心豊かに幸せに楽しく暮らすことを志向する。

もちろん、奇跡のコースの世界観が基になる。

今、わたしが模索中で
形にしたいセッション(レッスンっぽい感じかな?)と
グループワークは、そのようなものだ。

夢を素材として、意識下のものを意識に上らせて、
それについて「どうあるか」を選択する。
あるものは言語化し、あるものはイメージのまま
見守っていく。(あるがままをゆるす)

先日書いた「時間短縮」ということでは
特にグループワークでは、癒し(恐れからの解放)の
かなりの時間短縮ができるのでは?と思う。



美和子








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【つれづれ】時間の短縮について思ったこと

2013.04.13(Sat)




去年図書館で借りて読んだ
ケネス・ワプニック氏の著書『天国から離れて』を注文した。

今日か明日届く予定で、とっても楽しみだ。

『天国から離れて』の中に
コースを記述したヘレン・シャックマンが
欲しいコートを買うために、
イエスが、購入する店とタイミングをアレンジしたという
エピソードがあった。

ヘレンが買い物に費やす時間を短縮し
コースの記述に専念するために、ということだった。(と思う)

わたしにも、欲しいデザインのブラウスを
思わぬところで思わぬ低価格で買えた体験がある。

これも、時間短縮のためだったのかどうかはわからないが
ヘレンの話を知って
わたしにも、ミラクルワークに専念するために
時間を無駄遣いせず短縮のための何かが与えられたことが
あったのかもしれない、と思えてワクワクした。



わたしの時間短縮としては、
過去の近いところで大きなものでは、「離婚」かな?と思った。

元家族と一緒にいてコースを学び続ける、という選択もあった。
というか、当時は「それしかありえない」と感じていた。
(それを続けなかったことについて、後々、かなり自責の念を持った)

しかし、その暮らしを続けることが
寄り道、余計な負担・・・重圧になっていることを表す夢を見て
夢体験として納得がいった。
→【寄り道して袋小路に入る】夢

独り身になって、1年半ほど一人暮らしをした。
その間に、まだ一度も終わらせたことのなかったワークブックを
ウロウロしながらも最後まですることができた。

ほとんど一日を一人だけで過ごす生活。

一人でいると、過去の記憶が何度も思い起こされる。
その記憶(知覚したと思っているもの)に対して
感情が沸き起こってくる。

誰かを攻撃したくても、
都合の悪いことを誰かのせいにしたくても
自分の他には誰もいない・・・責めようがない。

この生活で、
他の人が何を思うかは関係なくて
わたしが間違った知覚をしているだけで
わたしが何を見たいか、どうありたいかを選び
聖霊に訂正(元に戻)してもらうだけなのだ
と思わざるを得なくなった。

そしてこの生活で
その、記憶の幻想に対して出てくるたびに
ゆるし(奇跡)を行った。

愛と感じるものも たくさん体験した。

奇跡のコースが 前よりも好きになった。
本当の自己へ戻る方法は様々であっても
わたしはコースを使ってみんなで戻ろう、と心が決まった。

その間に、次の仕事への道筋ができて
そのために、実家に戻って家族と暮らす心づもりができた。

家族とフランクに何でも話せて仲良く暮らすこと。
家族と(だけでなく他の「きょうだい」たちとも)
そのような関係になることは、
わたしのこの人生で成し遂げたいことの一つであり
コースを学びながらそれができるのは嬉しいことだ。

・・・と、過去のことと時間短縮をこのように意味づけして
納得がいったように感じるだけなのかもしれないが。
今はコレでしっくり行っているので、よしとしよう。



美和子






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【つれづれ】つい、意味を考えてリアルにしちゃっているのだった

2013.04.08(Mon)



過日、携帯電話をトイレに水没させて壊した。

携帯電話がひとつ壊れるだけで、動揺して
そのことに感情と行動が振り回されてしまう。



どういうことが起こったのかといえば
ジーンズのポケットに携帯を入れていたのを忘れていて
無意識に立ち上がったら、ポケットから落ちた。

(・・・という知覚をした)

同機種の新品と交換する費用が何千円かかかったけれど
補償サービスに入っていて、出費は抑えられた。
電源以外のキー操作ができなくなって
画像・音楽・電話帳などデータは全滅した。
(データ復旧させるサービスは使わなかった)

・・・そういう現象として、わたしは記憶している。

また同じことをしてしまうのは、嫌だ。(←怖れ)

もう同じことをしない対策としては、
携帯をジーンズやズボンのポケットに入れないことに決めた。
そして、どこかに置き忘れのないよう
存在が目立つようにと、ケースの巾着を
ストラップ部分にくくりつけた。

でも、ポケットに入れなくなってからは
置き忘れや不携帯状態が多くなった。

それでも困ったことはない(と思う)。

そして、対策を講じると同時に
「このことは、なぜ今起こったのだろう?」
「このできごとは、何を意味しているのだろう?
 (何のメッセージがあるのだろう?)」
と思った。



ものごとの解釈をして、
それが腑に落ちれば安心できる(ような気がする)。

「使えないことによって、ものごとの進展をストップさせるため」
「『今は、携帯でのコミュニケーションより、
 生身のコミュニケーションが大事な時』というメッセージ」
「『過去はいらない』ということを学ぶため」
などと、いくつかのアイディアがすっと浮かんでくる。

しまいには
「『過去はない』という体験だ」などと
コースの学びに関係あるような解釈をする。

聖霊に話しかけないで
自分で考えて答えを出そうとする。



おととい出席したアドバンスクラスでは
「これって、どういうこと?」と考えること自体が
幻であって実在しない出来事をリアルにしてしまう、
という話になった。

それが自我の誘惑。

自分で解釈しようとするのはもちろん
人に「これって どういうこと?」と聞かれると
思わず「それはね・・・」と答えを出したくなる。
何か言えると、カッコいい感じもするし(笑)



過去にあったこと、と思っている幻想は
何も意味していない。
だから、幻想の意味を考えても意味はないはず(笑)

動揺するのは、何もないところに
何か幻想を見たから 動揺しているのだ。



できごとに自分なりの意味を見つけたら
なんとなく安心する。満たされた感じがする。
でも、真実(実在)ではないので
それは、一時の満足感で終わる。

意味を考えさせることによって
自我は、真実から目をそらせようとする。
自我を解体から護ろうとする。

残念だけれど、そういうふうになっているようだ。



動揺した感情、見た幻想は聖霊に託し
見た幻想の意味を考えることなしに、
聖霊と共にいて、体験を信頼する。

そうなれたらどんなに楽だろう、って思うわぁ・・・



美和子




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【つれづれ】ひたすら訂正してもらう日々

2013.04.01(Mon)




3月は、突然暖かさがやってきて
花々が一斉に花開き、心がそれに追いつけない日々だった。
そして、後半は、毎日眠くてしかたがなく睡眠をたくさんとっていた。

新年度始まりの今日は、何か切り替わって
しゃきっとしてきたので、またゴソゴソと
片づけ物・掃除などをしはじめた。



ところで最近、フェイスブックやブログで
誰かほかの人が書いていることや活動・イベントに
興味が持てなくなっている。

パソコンを壊して、修理中にwebから離れていたことや
過日、携帯を水没させ壊したことも
関係あるかもしれない。

人が書くものに興味を持てないことについて
「感性が鈍感になってしまっている、それはおかしい」
「情報に乗り遅れる」「他の人に後れを取っている」
「(SNSなどで)友達に不義理をしている」
と、わが自我氏は 突っ込んでくる。

でもそれは「問題」ではないのだと思う。
webの世界よりも、
家族をはじめ 仕事の施術のお客様方、知人たち
生身の人や生きものたちとの関わりが
日常の、身の回りのことが おもしろいのだ。



毎日、ほんのささいな思いでも、気づけば
聖霊に預けて、知覚を訂正してもらっている。

気持ちいいことばかりでなくて
「ちっ」と思うような、時には「ギクリ」とする、
不快なこともあるし、疲れを感じる時もある。

とはいえ、聖霊に預けて
「あ、判断(いい・わるいetc.)したから しんどかったんだ」
「この出来事に別に意味はない」「問題じゃない」
「この人の本当の姿を見たい」
などと思い直すことができる時が 増えている。

そのように「奇跡」「ゆるし」を行なったものについて
ひとつひとつ確認はしていないけれど
確かに「訂正」された証拠のような
人からの愛を知覚する瞬間は、ちゃんとあるようだ。

愛を差し出せば、愛を受け取ることになる。
それを体験している。



外側に 誰かほかの人がいるのではなく
外側で 何かひどいことが起こっているのではなく
外側に 何かおもしろいものがあるのでもない。

自分が作っている(創っている)ものだけが見えている。

見えているものを変えたいなら
そのものを どうこうするのではなく
期待通りに動かない誰かを 変えようとするのではなく
自分にとって都合の悪いことを人のせいにするのではなく

見ている(知覚している)ものを
聖霊に訂正してもらい、
愛・平和・やすらぎ・穏やかさ・光・・・
正しい知覚を 体験させてもらおう。



美和子






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18:53 | Comment(0) | Trackback(-) | EDIT

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美和子(Miwako)

Author:美和子(Miwako)
美和子です。奇跡のコース学習者として 記録したいことを綴ります。

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